1970年5月、スティーヴ・マックィーンは自身にとって最も意義深い企画の実現のためにフランスへ渡った。マックィーンは「The Castle」とも呼ばれたビバリーヒルズの大豪邸に居を構え、2人の子供と美しい妻、ニールとともに暮らし、1960年代は彼にとってまさに黄金の10年とも言える素晴らしいときを過ごしていた。60年代に出演した『荒野の七人』『大脱走』は史上空前の興行成績を上げ、『華麗なる賭け』では多くの批評家から絶賛を浴び、『ブリット』ではその後の映画に欠かせなくなった<カーチェイス>を発明した。『ブリット』で5作連続のヒットとなったマックィーンはハリウッドの頂点に君臨、多くのリスペクトを集め、絶大な権力を誇っていた。自身のプロダクション会社であるソーラー・プロはシネマ・センター・フィルムズ社と6作品の契約を結んだ。マックィーンは仕事を完全にコントロールし、自由に作品を選べる立場となっていた。そして遂に、最も情熱を注いで実現させようとするプロジェクトを立ち上げるときが来た。『栄光のル・マン』である。シネマ・センター・フィルムズはそれまでのマックィーン作品では最大の600万ドルを出資、監督はレジェンドであるジョン・スタージェスに決まっていた。マックィーンのビジネス・パートナーであり、親友のロバート・E・レリアが制作現場を指揮する。マックィーンとクルーは14世紀に建てられた古城に滞在した。クルーは多国籍の技術者やメカニックが集められ、45人もの世界最高のレースドライバーたちが参加した。マックィーンの目指していたビジョンは本物であること、オーセンティックであることだった。レースの本当のエッセンス、本当の危険さ。そのため撮影は実際のレースと同様のスピードで撮影されることが必須だった。当時の最新の映画制作の常であったスローモーションやSFXなどの視覚効果、物語に組み込まれるロマンティックな要素はマックィーンにとっては不要なものであった。『栄光のル・マン』にはハリウッド最大のスター、最高の監督、最強の技術チームが集結したが、1970年6月の段階でひとつだけ欠けていた要素があった。台本が無かったのだ。この物語は、史上最もカリスマ性を放つ映画スターが、自身の夢を追うばかりに、どのようにしてすべてを失いかけたのか、を描く真実の物語である。マックィーンにとってレースは単なる趣味のものではなかった。1960年代には自身で才能あるレース・ドライバーとしての地位を確立、スピードは中毒であり、現実から逃げられる場であった。マックィーンが愛するモータースポーツの映画企画を初めて思い付いたのは1962年のことだった。そしてF1を題材にした『Day Of The Champion』の企画がワーナーブラザースの資本でスタートするも、1966年、MGMがジェームズ・ガーナー主演の『グラン・プリ』を先行させたため、ワーナーは企画を中止した。その『グラン・プリ』はレース映画というよりは<車輪のついたメロドラマ>といった内容だったことがさらにマックィーンの心に火をつけることとなった。それからはマックィーンは「究極のレース映画を作る」ということに取り憑かれていった。マックィーンにとってレースは一種のアートでもあった。レースというスポーツのすべてを描き、それにまつわる人間のスピリットをフィルムに焼き付けたかったのだ。1970年、ル・マンの24時間レースは最高の運転技術が試される世界最高峰のレースであった。マックィーンは自身のビジョンに合致する最高の場としてル・マンを選んだ。それは単に作品に俳優として出演するだけではなかった。映画企画全体の掌握であった。撮影開始の9か月前、マックィーンはハリウッドにある女優シャロン・テートの自宅で開かれたパーティーに出席する予定だった。しかし直前にガールフレンドの意向によりキャンセルされ、結果的に命を救われていた。ロマン・ポランスキーとの子を身ごもっていたシャロン・テートはそのパーティーの晩、チャールズ・マンソンファミリーによって惨殺された。撮影中、マックィーンはマンソンファミリーの「殺すリスト」のトップに自分の名があることを知り、以来、銃所持のライセンスを取得、常に弾を装填した拳銃を携行するようになっていた。『栄光のル・マン』制作のプレッシャーとともにマックィーンは偏執病的になっていった。さらに撮影の序盤、夫の露骨な不倫行為に絶望した妻のニールが自身の不倫を告白した。マックィーンは妻と映画企画の両方を失おうとしていたのだ。撮影開始から6週間、ハリウッド的な物語を拒否し続けるマックィーンに対し、監督のジョン・スタージェスは自ら降板した。以来、二度と2人のコラボレーションは生まれなかった。さらに予算超過を続け、いくら経っても台本らしいものが見えてこなかったことに対し、出資会社であるシネマ・センター・フィルムズは強制的にマックィーンの制作現場における権力をはく奪、プロデュースの権利を奪い去った。マックィーンはこれらの責任を親友のロバート・E・レリアに押しつけた。
『栄光のル・マン』の後、マックィーンは二度とプライベートでレースに参加しなかった。また映画に対する情熱は以前とは異なるものとなっていった。
CGやSFX全盛の現代において、『栄光のル・マン』は史上最もリアル、二度と再現出来ないレース映画として評価をされている。
マックィーンは「純度とリアリズム」の追求を成し遂げた。しかしその評価を得たのは彼の死後、長い時を経た後である。